永山本家酒造場の歴史 2
貴のはじまり

永山本家酒造場の歴史 2
貴のはじまり

酒商山田さんとの出会い
そして 純米酒の可能性

わたし永山貴博が、5代目の家督を継ぐため蔵に入ったのは2001年です。幼い頃から人々が日本酒から離れていく様を見聞きし、次第に家業と距離を置く中、酒造りと交わる事のない職に就くため2年間の海外留学をしました。帰国後、蔵の惨憺たる状況を知り、海外で得た知識を使い資金の工面などに奔走しました。そんな中でわたしはこの蔵の現状に対してできる事がないものかを考えるようになりました。気がつけば広島の醸造研究所で杜氏になる勉強をしていました。その時出会った方が広島の酒商山田さんです。当時の酒作りは95%が醸造後アルコールを添加する方法で、純米酒の醸造量は全体の5%程度。山田さんはその純米酒の市場を熟知し、そこに参入するために酒造りはどのようになければならないかを教えてくれました。「良い酒を作れば認めてくれマーケットがある」その事にわたしは心が躍りました。歴史の中で味も評価も固定された永山の酒造りをどう変革してくのか?その可能性を見いだせたような気がしたからです。

醸造研究所と
ワインの出会い

醸造研究所でわたしは主に原料米とワインのぶどうを学びました。授業が終わると誰ともなく集まり持ち寄ったワインを試飲する日常がありました。その中でわたしは、ワインが有史以来世界の醸造酒としてゆるぎない地位にある事、そしてその源泉を知ることになり、今後の日本酒業界の中での純米酒の可能性を確信していきました。少しづつわたしの中で酒作りの設計図のようなものができました。また当時、東京で酒造界を賑わせていたのが山形の十四代です。高木社長の斬新な仕掛けや活動はこれからの日本酒業界の光明として、わたしを随分勇気付けてくれました。

杜氏になるために
そして貴のはじまり

醸造研究所で朧げながら出来上がった設計図を元に、南さんという杜氏に3年間酒造りを学びました。1年後、杜氏として独立しながら長門市で酒造りをされていた野中さんのサポートを受け、2002年、あら削りながら初めてのわたしの酒ができました。この酒をどう市場に下ろしていくのか?酒商山田さんに相談したところ、貴と命名することを勧められました。一文字の銘柄に一日の長があり、それが理由でした。こうして様々な方のお力添えをいただいて純米酒専門店に置かれることになった貴は順調なスタートを切り、2003年には dancyu地方の隠れた名酒部門1位を獲得するに至ります。